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俳句総合スレ

1 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 12:50:13
日本語の俳句(はいく)とは、季語(有季)及び五・七・五(十七音)を主とした定型を基本とする定型詩である。江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される。
和歌や連句(俳諧連歌)の発句と同様に、俳句は発生の時点で無季(雑)の作品も存在しており、
無季俳句といわれる。有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句もある。また、多くの外国語でも俳句は作られているが、外国語では季節感のある言葉でも季語の本意・本情が成立しがたく、
しかも五・七・五では切れや季語が俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌、略して俳諧から生まれた近代文芸である。
室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧で、17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高めた。なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、
すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。
明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句(月並俳諧)」と呼んで批判し、
1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた。
これ以降「俳句」の語が一般に用いられるようになった
季語や季感を持たない無季俳句や、定型からの自由を目指す自由律俳句も、詩感の追求という点で共通するため俳句に含むのが一般的であるが、それらを俳句と認めない立場も存在する。
また、英語などの非日本語による3行詩も「Haiku」と称される。日本語以外の俳句では五・七・五のシラブルの制約がなく、季語もない場合が多い。
現在では日本語を母語としない者が日本語で俳句を作っている。そうした俳人には現在マブソン青眼、ドゥーグル・J.リンズィー、アーサー・ビナードなどがいる。
日本の詩歌の伝統をひきついで成立した俳句は、五・七・五の拍(モーラ)による言葉の調べ(韻律)と
「季語」と「切れ」によって、短い詩でありながら心のなかの場景(心象)を大きく広げることができる特徴を持っている。
活きる短さにならない言語が多いため、日本で言うところの無季自由律俳句が多い。世界最短の定型詩のうちの一つとされる。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
俳句と松尾芭蕉をぶっ壊す



2 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 13:42:49
松尾芭蕉 古池や蛙飛びこむ水の音
季語は蛙(春)。古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、
という単純な景を詠んだ句であり、一見平凡な事物に情趣を見出すことによって、和歌や連歌、
またそれまでの俳諧の型にはまった情趣から
一線を画したものである。
芭蕉が一時傾倒していた禅の影響もうかがえるがあまりに広く知られた句であるため、
後述するように深遠な解釈や伝説も生んだ。
初出は
1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化で、
蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)
二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、
芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。
このときの句合は合議による衆議判制で行われ、
仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである。
一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、
成立年は貞享3年と見るのが定説である[6]。なお同年正3月下旬に、井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、
これが初案の形であると思われる[7]。「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である[1]。
『蛙合』巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、
いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる[8]。「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して
生簀としていた芭蕉庵の傍の池であろう[4]。1700年(元禄13年)の『暁山集』(芳山編)のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。
芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。



3 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 13:51:09
松尾芭蕉 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
訳 春が過ぎ去ってしまうことに鳥は鳴いて悲しみ、魚の目には涙が浮かんでいるよ。
この詩が詠まれた背景
この詩はおくのほそ道(第2首目)に収録されています。
この句の前に、「彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて
光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、
又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて
船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。」
(3月27日、早朝の空はかすんでいて、月の光は日の出とともに薄くなっており、富士山はかすかに見える。上野、谷中(台東区)の桜のこずえを、
いつまた見ることができるのだろうかと心細く思う。友人たちが宵のうち(18時ごろ)から集まり、
船に乗って送ってくれた。
千住というところ(足立区の北千住駅一帯)で船から降り、これから3千里(約12,000 q)の旅が始まるのだと思うと胸がいっぱいになり、
幻のように儚い運命の分かれ道に離別の涙を流した。)とあります。
(幻のちまたは「幻の巷」と書き、幻のようにはかないこの世の分かれ道という意味があります。)
■ 豆知識
芭蕉がいよいよ旅に出発する際に詠んだ句です。
当時の旅は大変危険で、無事に生きて帰れるかどうかわからなかったことや、東北への旅は方角的に鬼門となるため、
不安要素も多かったことかと思われます。
3千里(約12,000 q)の旅と書かれていますが、実際の行程は600里(約 2,400 km)でした。
それでも大変な距離ですが、当時46歳だった芭蕉はそれをわずか5か月で移動し帰省しています。



4 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 13:59:12
松尾芭蕉 山里は 万歳遅し 梅の花
意味「辺鄙(へんぴ)な山里では、正月も半ば過ぎ梅の花が咲く頃になって、ようやく万歳がやってきたことだこの句は、松尾芭蕉が元禄4年(1691年)の正月すぎ、故郷の伊賀上野(現在の三重県伊賀市)で過ごした際に詠んだ句です。
この頃は約5ヶ月かけて北陸・東北を中心にまわった「おくのほそ道」の旅から戻った、晩年の時期にあたります。
自らの老いと死を覚悟しながら挑んだ過酷な旅を終え、久しぶりに訪れた故郷ののどかな風情に、芭蕉の心やすらぐ姿が目に浮かびます。
この句に用いられている「万歳」とは、正月を迎えた民家で「千年も万年も栄えるように」と新年を祝う民俗芸能です。
主役の万歳太夫と鼓を打つに脇役の才蔵の二人一組で行われ、舞や歌で人々を楽しませていました。時には滑稽な問答を交わしたりすることから、現在の「漫才」の元祖だとも言われています。
室町時代には家々を訪れるようになり、やがて江戸時代には都や周辺各地で、万歳師の拠点がでできていました。
しかし、万歳師も新年を祝うといっても、実入りがよく家が密集している都を先に巡ります。芭蕉の故郷のように、都会から離れた田舎では後回しになるのも仕方がありませんでした。
梅の花がほころび始める頃、ようやくやってきた万歳師たちに、まるでもう一度正月の気分が舞い戻ってきたかのように感じたことでしょう。
芭蕉はそんな背景をふまえ、「山里は万歳遅し梅の花」と詠んだのでした。」



5 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 14:08:03
松尾芭蕉 山路きて 何やらゆかし すみれ草
「山路を辿って歩いてきたら、すみれの花を見つけた。なんともいえず、そのすみれの花を慕わしいものに思ったことだ。」
「ゆかし」とは、慕わしい・心惹かれる・なつかしいといったような意味です。この句は、「野ざらし紀行」という本に所収されています。
「野ざらし紀行」は、貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて松尾芭蕉が、弟子の千里(ちり)とともに旅をした時の紀行文です。
江戸から東海道を下って伊賀上野へ赴き、母の墓参をして大和国(奈良県)・近江国(滋賀県)・美濃国(岐阜県)・名古屋へも赴きます。その後、故郷である伊賀で年を越し、京都や大津を経て甲斐国(やまなし)を回って江戸へと旅をしました。
この句は「大津に出る道、山路をこへて」というメモもあり、京都の伏見から大津に行く途中の山道でのことだとわかります。
また、この句は名古屋の熱田神宮での連句の句会でかつて詠んだ「何となく何とはゆかしすみれ草」(なぜなのか、なんとなく慕わしいすみれの花がさいているよ)という発句がその原型だとされます。
(※連句とは江戸時代にはやっていた、複数の人が集まって、テーマに沿って句をつなげていく知的ゲームのようなもの。まず五・七・五の句を立て、それに続いて、七・七の句と五・七・五の句を繰り返しつなげます。
発句というのは、連句の一番最初の五・七・五の句のことです。)



6 :立川の名無しさん : 2021/01/11(月) 14:19:43
松尾芭蕉 草臥れて 宿借るころや 藤の花
意味 歩きつかれ、くたびれてきて、そろそろ宿をとるころ合いとなってきた。ふと気づくと藤の花が見事に咲いているよ
この句は、「笈の小文」という紀行文にのっています。
「笈の小文」とは、松尾芭蕉が貞享4年(1687年)の10月に
江戸を出て、尾張(愛知県)・伊賀(三重県)・伊勢(三重県)・大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)をまわり、須磨や明石(どちらも兵庫県)を旅したときの俳諧、記録をまとめた書のことです。
この句は、松尾芭蕉が大和国の八木(奈良県)
で宿を求めた時に詠まれた句になります。
芭蕉の門人・服部土芳の著書には、師である芭蕉の句や門人の句への評価をまとめた「三冊子(さんぞうし)」というものがあります。
芭蕉の句の推敲の過程が分かるものもあり、興味深い資料です。
「三冊子」によると、この句は「ほととぎす宿借るころや藤の花」という句がオリジナルだったようです。



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