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関ヶ原の戦いについて語ろう

1 :立川の名無しさん : 2019/10/09(水) 21:28:05
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。
関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある[注釈 1][5]。
関ヶ原の戦い
Sekigaharascreen.jpg
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ケ原町歴史民俗資料館
戦争:関ヶ原の戦い
年月日:慶長5年9月15日(1600年10月21日)
場所:美濃国関ヶ原、垂井
結果:東軍の勝利。
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らの斬首
交戦勢力
西軍
東軍
指導者・指揮官
Ichimonjimitsuboshi.svg 毛利輝元
大一大万大吉.svg 石田三成
Jimonji.svg 宇喜多秀家
上杉氏竹に雀 上杉景勝
Mukaichou.jpg大谷吉継
ほか
Tokugawa family crest.svg 徳川家康
Tokugawa family crest.svg
時計回りの三つ巴 結城秀康
Kuroda Fuji(No background and Black color drawing).svg 黒田長政
ほか
戦力
80,000以上[諸説あり]
74,000 - 104,000[諸説あり]
損害
戦死者:[諸説あり]
8,000[1] - 32,600[2]
戦死者:[諸説あり]
4,000 - 10,000



2 :立川の名無しさん : 2019/10/10(木) 08:18:39
豊臣家内部の対立とその背景 編集
秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は秀吉の独裁から幼少の後継者秀頼を五奉行五大老のメンバーによって支える集団運営体制へと移行する。しかし秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してゆき、戦役の結果により消滅することになる。
政争の原因については以下のようなものが想定されているが、関ヶ原の戦いにおける東西の対立関係は複雑なものであり、
各大名の動向を決定した要因は多岐にわたるものと考えられる[6]。
また地方での戦闘は主力決戦が政治面も含めて決着した慶長5年10月以降も
行われており、必ずしも政権中央での政治対立に直結したものでは無い[7]。



3 :立川の名無しさん : 2019/10/10(木) 08:51:34
中央集権派と地方分権派の対立
太閤検地の実施とそれにともなう諸大名領内への豊臣直轄領(豊臣蔵入地)の設置[8][9][10]
や、大名内部で発生した諸問題への介入によって、豊臣政権(中央)による地方大名への支配力強化を進めようとする石田三成・増田長盛らの強硬・集権派と、
これに反対する浅野長政らの宥和・分権派との対立
が抗争の背景にあったとする説である。
一方、戸谷穂高は宥和・分権派として長政の名が挙げられている点について、「その論拠は一切示されておらず」
強硬・集権派との「対立構図自体にも再考の余地が見だされる」としている[12]。
文禄2年長政は甲斐へ国替えとなり伊達・南部・宇都宮・成田らの東国諸大名を与力とするが、
それ以降、運上金増収を目的とした大名所有の鉱山への支配強化や、日本海海運の掌握を進め[13]、また宇都宮氏・佐竹氏の改易を主導するなど[14]
宥和・分権的とは言い切れない動向も見られる。
曽根勇二はこれら東国における長政の動向を朝鮮出兵のための「総力戦の体制を打ち出した秀吉政権の集権化の実態を示すもの」とし、
集権派対分権派の構図に疑問を呈している[15]。



4 :立川の名無しさん : 2019/10/10(木) 11:51:52
朝鮮出兵時の豊臣家臣団内部の対立
慶長・文禄の役の際、石田三成・増田長盛を中心とした奉行衆と加藤清正・黒田長政らを中心とする渡海軍諸将との間に発生した作戦方針・軍功を巡る対立が関ヶ原の戦いの主要因とする説である。
この対立関係は豊臣政権において主に政務活動を担当した「文治派」と、軍事活動に従事した「武断派」との対立を含んだものともされる
しかし、両派閥の不仲を示した逸話には一次史料による確認が取れないものや創作と思われるものが多く
一方のちに東軍の属する武将間でも対立関係は存在している。巨済島海戦の軍功を巡っては加藤嘉明と藤堂高虎が対立しており[21]、蔚山の戦い後、
現地諸将より秀吉に提案された戦線縮小案については蜂須賀家政が賛同したのに対して加藤清正は反対の立場を取っている(慶長3年3月13日付加藤清正宛豊臣秀吉朱印状)
中野等は三成を中心とする「文治派」対加藤清正らを中心とする「武断派」との対立の構図は、江戸時代成立の軍記物等の二次史料から発して、その後旧来の研究の中でステレオタイプ化したものとしている[23]。
例えば、賤ヶ岳七本槍のイメージから武功による出世を果たしたと思われがちな加藤清正は国内統一戦の過程において目立った戦績が無く、
朝鮮出兵以前においてはむしろ豊臣直轄地の代官や佐々成政改易後の肥後国統治など文官的活動が主であった[24]。



5 :立川の名無しさん : 2019/10/10(木) 12:03:16
秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執
文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、
秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、
一方諸大名は三成を憎むようになったとする。
しかし三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった
「甫庵太閤記」と言う本の記述に登場して以降
の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、
史実として立証されたものでは無い。
「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立
「太閤様御置目」(秀吉の遺言[26]や死の前後に作成された掟[27]・起請文群[28])に従って政権運営を進めようとする
豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその
家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。
家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、
大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、
豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。
一方前田・増田・石田・長束の豊臣四奉行は、秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文[29]を毛利輝元と作成しており、
その立場は家康の行動とは相違するものである。



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