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関ヶ原の戦いについて語ろう

5 :立川の名無しさん : 2019/10/10(木) 12:03:16
秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執
文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、
秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。結果両者は親密な関係を結ぶことになり、
一方諸大名は三成を憎むようになったとする。
しかし三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった
「甫庵太閤記」と言う本の記述に登場して以降
の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、
史実として立証されたものでは無い。
「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立
「太閤様御置目」(秀吉の遺言[26]や死の前後に作成された掟[27]・起請文群[28])に従って政権運営を進めようとする
豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその
家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。
家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、
大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、
豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。
一方前田・増田・石田・長束の豊臣四奉行は、秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文[29]を毛利輝元と作成しており、
その立場は家康の行動とは相違するものである。



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