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中江兆民総合スレ

1 :立川の名無しさん : 2019/10/07(月) 01:02:49
中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日[1])は、日本の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、
東洋のルソーと評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。
兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。また、他の号に青陵、木強生がある。
諱は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。



2 :立川の名無しさん : 2019/10/07(月) 01:05:39
誕生と修学
高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。
文久2年(1862年)には藩校の文武館開校と同時に入門し、細川潤次郎、萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、
慶応元年(1865年)9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴。このころ郷土の先輩である坂本龍馬と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、
などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(1867年)5 - 6月に江戸に移り、
村上英俊の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、
フランス外交団の通訳を務める。
政府出仕
王政復古、江戸開城により江戸幕府が消滅して明治になると、苗字の名乗りを許される。兆民は通訳を辞職して東京へ戻り学問を続ける。
福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、箕作麟祥の家塾にも入門。
明治3年(1870年)には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(1871年)、廃藩置県により土佐藩の身分制から開放され、
明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用される。このとき、兆民は大久保利通に採用を直訴したという。同年11月には横浜から出発し、
アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリ、リヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。
明治7年(1874年)6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開く。塾では語学や思想史のほか、
漢学も重視された。また、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。また民権論の教授に務めた。当時の生徒に、後に大隈重信を襲撃した来島恒喜らがいた。



3 :立川の名無しさん : 2019/10/07(月) 01:11:04
明治8年(1875年)には東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立したとされ、
直後に辞職。元老院副議長の後藤象二郎より同院権少書記官に任命され
調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(1876年)には国憲取調局掛を兼ね、井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。
勝海舟とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の海江田信義、海江田を通じて島津久光とも知り合い、『策論』を建言したという。
明治10年(1877年)に辞職。同年には西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1879年)には高知県士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。
在野時代
元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、私塾・済美黌で高谷龍洲に師事して漢学修行を続けている。
自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、
すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約訳解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、
党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。
外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、
明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる
また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。
明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。
兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、
角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、
いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ『勤王美(義とも)談上野曙』は兆民が幸徳秋水に依頼したといわれる。



4 :立川の名無しさん : 2019/10/07(月) 01:22:32
初期議会と議員辞職
翌明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)
の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、
「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、
インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」
と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1,352票を獲得して一位で当選[5]、国会議員となる。
また、兆民の二人目の妻である松沢ちのは
被差別部落出身だったともいわれる[6]が、実際には代々神官を務めていた旧家の出身とされる
兆民は民党結成のために奔走し、明治23年(1890年)に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、
自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り明治24年(1891年)2月に辞職[9]。
その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」
という辞表を提出した。自身をアルコール中毒と主張する辞職願は僅差で承認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉であるという批判を受ける。



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